yuki_k_univの日記

人生終わコン yuki_k_univ のブログ。

若者のジレンマ~精神的幸福と社会的承認の狭間で~

自身の精神的自由と、自身に対する社会的承認の狭間で揺れている若者が多いと思う。そしてこれからも段階的に増えてくるであろうと思っている。また、日本的な価値観に自身が適応しないとと判断し、起業や海外就職、ひいてはニート等を選択する者も。今回は私自身の経験則も交えて、掲題に対する論述をしようと思う。


- 何故精神的幸福を追うようになるのか

「普通の生活をして、普通に死にたい」から「自分くらいは楽しく行きたい」へ

何度もしきりにWEBでは議論されてきているこのテーマ。キーワードは勿論、ブラック企業やパワハラ・モラハラ、そして低下し続ける賃金に、変化し続けている雇用形態などの経済状況のシフト等であろう。

高度経済成長期は、それこそ労働集約的な企業でも成長していた。高卒でも大卒でも、一回新卒で企業に入社すれば終身雇用の枠組みに入り、一定の覚悟と犠牲を払えばそこそこの給与に、人並のライフイベントの享受があった。深夜にまで残業が及んでも、毎回休日に会社に出勤しようがそうした対価があることにより、一種の希望的なモノを各人が保持していた。

しかし現代の様な、経済成長が停滞している世の中ではなかなか厳しい状況に各人が直面する。新興企業から大企業まで、労働集約的な企業では成果を上げることが難しくなり、管理職からのプレッシャーや直属の上司からの詰めを受け、自身でも中々自覚しないうちに多大なストレスを抱えて仕事をしているケースもある。そして経済成長との時代とは異なり、一向に上昇しない賃金に加え、40代以降に襲ってくるであろうリストラや等により、一種の希望的なモノすら保持できないような環境で、サラリーマンは働いていると個人的に思う。

現代の若者は、それをよく知っている。多感かどうかはわからないが、積極的にWEBを活用して情報を集めて、人生一回きりの新卒採用資格というプラチナチケットを無駄にしないよう、良い企業に就職をしようとする。そして企業に入社する。とりあえずどんな企業であろうと、入社をしないと「社会的承認」を得られないからだ。この社会的承認を与える立場の人間は、勿論身の回りの人間全員だ。育ての親、親族、地元の友、ひいては将来的に転職をする時は転職市場であったり。新卒入社という一種の「イニシエーション」を経ないと、社会人になる事は不可能だ。

そして入社した会社で、待っているものは今迄に経験したことのない事案だ。結論が用意されている単なる漫談のような「激詰め」に、飛び込み営業や、理不尽な研修など。それら儀式的なモノを棚に上げると、利益を創出することの厳しさや、反対に自分が全く利益創出を行えないポジションで仕事を行ったりする。それらの環境でも、後に対価が得られるのであれば耐えるのが合理的選択だ。しかし対価が得ることが難しいと分かっていればこんなに厳しい状況に我慢出来ずに、精神的に苦しんでしまう事案も発生する。経済的に厳しい冬の時代だからこそ、上司も部下に対して厳しく接するであろう。

マクロで見ると経済情勢的理由、ミクロで見ると各人の置かれる厳しい環境、そしてそこからのキャリアチェンジ。「普通の生活、そして普通の死」が叶わないのであれば、若者は精神的幸福を求めて揺れ動く。私はそう思っている。



- 失われる「社会的承認」

一回、日本的な慣習から降りると復帰は結論、不可能ではないが極めて厳しくなる。自身の幸福を求めて、例えばフリーターに一定期間おさまるとする。そこで得られる精神的自由よりも、多くの人間は「フリーターをしているダメ人間」と社会人失格の烙印をし、失ってしまう社会的承認の方が極めて重くのしかかってくる。同窓会などで友人と会っても、自身の境遇を話すことすら憚られ、恋人の両親に挨拶すら出来ない、そして転職市場では「空白期間」として「社会的にその個人が存在していない」事と認定されてしまうからだ。

先述した、幸福への逃避とは、この社会的承認とのトレードオフであるケースが多い。何故なら経済情勢が厳しい昨今では「労働」がとてもシビアで厳しいものである事に加え、労働集約的な企業での過酷な就労環境があるからだ。(幸福を何故労働と対比させているかに関しては、労働というものが多くの人間に関連する事案だからである。何故なら労働は日本国民の三大義務であるからだ)

若者は精神的自由を求めて、フリーターやニートとなる事を選択したり、はたまた海外就職を選択したり、怪しい個人事業主になる事を選択する。そしてそれと引き換えに失う、社会的承認を天秤にかけ自身の利益が最大化するような道を進もうとするはずだ。(ここで言う「利益」とは幸福度や資産、キャリアなど多岐に及ぶ)



- 私のケース

私はまさしく、先述の点で悩みふけっていた。11新卒で入社した企業はとても厳しい事で高名だった、ブラック企業の東大医学部みたいな所とも形容される事もある。グループ企業では自殺する社員も一定間隔で現れると聞いた事があった。一定の職務中の自由は全くなかったわけではないが、それこそ海外資本企業の様な「自由放任主義」の名の下、数値目標を部署で共有し必達が至上命題で、やり方は2年目であろうが新卒であろうが、完全に個人任せであった。良く言えば、完全に個人のスキルで差が出たり、運次第で一気に道が拓ける事もある。しかし多くの人間にとってそれは、戦時下の様なソルジャーの如くの激務である。

結論を言うと、私はその企業で負けた。運にも恵まれず、自身のスキルも低い事も重なり、人並み以上程度の成果しか上げることが出来なかった。そんな私を待っていたのは1時間にも及ぶ激詰めや、人格攻撃などの嫌がらせ等であった。私のメンタリティーは人並み以下であったので、これが非常につらかった。ここで私は精神的自由を失う。そして精神的自由を求めて、それとトレードオフである社会的承認を天秤にかけ、退職するかしないかを最後まで迷っていた。(ちなみに退職を決意したのは、このままだと自分を殺す行動に出かねないという危機感より)経済不況、自身のスキルの無さ、低学歴等。様々な要因でこの選択までに至っている。


- トレードオフのその先には

高度成長期の様な経済情勢にはもう戻らず、一種の大企業の椅子も少なくなり、一流大学生の間で壮絶な椅子取りゲームが行われる。その下で、我々の様な大した学歴もない、優秀なスキルもない一般人はどうやってこの社会をサバイヴするのか、非常に興味がある。社会的構造のシフトが今まさに発生していると、とある友人が常々言っているが、それらもカタチとして現れ始めている。結論人脈がキーワードになり、人脈を元にビジネスが展開されるであろう。

企業人としてサラリーマン人生を全うする事が不可能なのであればその状況に適応していく、結論はシンプルにこうあるべきだ。そこに対する社会的承認も将来的には出てくるだろう。おそらく、社会的承認の根拠になっている結婚、出産、家の購入などを普通に行う個人事業集団の様なものも出現しそうだ。

僕は社会的承認を失い、今は関東から遠く離れた京都でフリーターをしている。そして祖父母の家に厄介になっている。これは典型的な社会のクズであろう。しかし、この選択も悪いものでなかったと思う。むしろ自分の置かれた経済的状況等を考慮すれば最適な選択なのかもしれない。しかしいずれは関東に戻り、また一度企業人として働く意欲でいる。企業に所属する事が金銭を稼ぐ上で、必要なことを学べる機会が多いからである。そのために今は、得た精神的自由と時間的余裕を活用して、シコシコと勉強したり、貯蓄を増やしたり、人脈を作ったり、色々な事にチャレンジする。

精神的自由と社会的承認のトレードオフの先を生きる若者として。