yuki_k_univの日記

人生終わコン yuki_k_univ のブログ。

「普通」と云う都合の良い言葉について

なんだかとてもmixiポエム的なサブタイトルになってしまい恐縮です。
今回「普通」という言葉から、色々この1ヶ月間考えさせられたので、徒然と箇条書きでエントリ書きます。
(要点まとまってないだろ、はナシで。まとまってないので)


- 普通って、何?

日常生活でも、よく耳にしますよね、普通って言葉。
僕の場合は、例えばパブリックスペースで他人に迷惑をかけるような行為を働こうとした人に対し、「普通にしてくれ」と云う意味合いで使う事が多いです。あとは初めて行った食べ物屋さんとかで(多いのはラーメン屋さん)好みが選べる時があるが、初めの時はデフォルトの味で楽しみたいので「普通で」と言う事があります。あとは、特に何の特徴もクセも無い人に対して「普通の人」と形容する事もあります。

皆さんはいかがですか?とは言うものの、殆んどの方が僕が先述した意味合いで「普通」という言葉を用いた事があると思います。便利ですしね。でもこの普通って言葉の意味は、使い手によりかなり意味の範囲が広がります。それこそ膨張を続ける宇宙空間のように。



- 普通の意味を追求するのは邪道?

何でこんなmixiポエム的なエントリを書こうかと思ったのは、twitterでfollowしている人が「大学で普通に恋愛し、サークルにも入ってる人は皆就職が決まっている。だから自分はやはりどこかおかしいのではないか」という内容のpostを投稿していたのを見てです。物凄く簡単に言い換えるなら、普通にしていたリア充は就職も普通に決まっていくでしょうか。さらに掘り下げると、「○○が普通だよね~」「この時はこうするのが普通だよね~」など、兎に角場の空気を普通に乱すことの少ない「普通」の回答や話法、普通の広範囲にわたる使い分けをこなしている人は、普通に就職も決まっていく等であろうと僕は考えています。

ここで一つの仮説なのですが、彼たち「普通愛用者」は特別この「普通」という言葉に対する理由づけや定義を全く考えていないのではないかという仮説です。と云うのも、僕は曖昧にされたり内容の薄い会話を嫌うので、幾つもの意味が考えられるような単語を使われたらまず間違いなくそこを追求します。「普通って例えばどんなの?」「それはどういう意味合いなの?」等です。僕は一応大学時代はサークルにもゴーストでしたが在籍し、彼女も居ました。でも就職は決まりませんでした(納得のいく結果が得られなかったという意味でですが)。依って僕は自分で自分の事を「普通」であるとは考えていません。場の空気も、確認の為止める事もあるし空気感とか嫌いです。でも追及することは実はかなり面倒なことです、双方にとって。何も考えない方が幸せである、とはよく言ったものでまさしく追求というのは幸福から自ら外れていくことを意味するものなのかもしれません。




- 普通と云う言葉は都合が良すぎる

普通という言葉は非常に使い手にとって都合のいい言葉であると同時に、使われた方はイラっとさせられるような魔法的な側面があります。例えば双方の所作で何か都合の悪いことが起こった場合を考えてみましょう。

  1. Aという職場に勤める太郎さんと花子さんはこれまで恋愛関係でしたが、花子さんのほうから別れを切り出しました。太郎さんはたまったものではない感情を抱いています。そこでいろんな報復を恐れた花子さんは、太郎さんに「職場の空気を乱さないためにも普通でいてください」といいました。

などなど、書ききれない程あると思います。普通という言葉は使い手にとってアドバンテージを与えてくれる言葉であり、それを追求する人や使われた方にとっては苦しいと思うのです。使う方の都合が良くなるから、僕はなるべく使わないようにしています。大学のゼミでの口癖は「民意ってなんだー!」な自分でしたから。


p.s

別に怨んではいないのですが、最近僕もとある人に「普通にしてて」という言葉を使われ凄く傷付きました。自分の心が弱く、浮ついたのが結論駄目だったと痛感はしています。しかし、いざ話をしても誠実に向き合おうともせず、安全圏から無難な言葉で丸めこもうとして自分が傷つかないように、自分が何も失わないように誘導的に話をした、とある人に対して今かなり怒っています。

と同時に、とある人に対しては、もう会わせる顔が無い気持ちに。多分、どうなったかはtwitterなりで見ている(これからかもしれないが)と思うけど、何を今思っているのでしょうか。

私怨に満ちたクソエントリでした。

若者のジレンマ~精神的幸福と社会的承認の狭間で~

自身の精神的自由と、自身に対する社会的承認の狭間で揺れている若者が多いと思う。そしてこれからも段階的に増えてくるであろうと思っている。また、日本的な価値観に自身が適応しないとと判断し、起業や海外就職、ひいてはニート等を選択する者も。今回は私自身の経験則も交えて、掲題に対する論述をしようと思う。


- 何故精神的幸福を追うようになるのか

「普通の生活をして、普通に死にたい」から「自分くらいは楽しく行きたい」へ

何度もしきりにWEBでは議論されてきているこのテーマ。キーワードは勿論、ブラック企業やパワハラ・モラハラ、そして低下し続ける賃金に、変化し続けている雇用形態などの経済状況のシフト等であろう。

高度経済成長期は、それこそ労働集約的な企業でも成長していた。高卒でも大卒でも、一回新卒で企業に入社すれば終身雇用の枠組みに入り、一定の覚悟と犠牲を払えばそこそこの給与に、人並のライフイベントの享受があった。深夜にまで残業が及んでも、毎回休日に会社に出勤しようがそうした対価があることにより、一種の希望的なモノを各人が保持していた。

しかし現代の様な、経済成長が停滞している世の中ではなかなか厳しい状況に各人が直面する。新興企業から大企業まで、労働集約的な企業では成果を上げることが難しくなり、管理職からのプレッシャーや直属の上司からの詰めを受け、自身でも中々自覚しないうちに多大なストレスを抱えて仕事をしているケースもある。そして経済成長との時代とは異なり、一向に上昇しない賃金に加え、40代以降に襲ってくるであろうリストラや等により、一種の希望的なモノすら保持できないような環境で、サラリーマンは働いていると個人的に思う。

現代の若者は、それをよく知っている。多感かどうかはわからないが、積極的にWEBを活用して情報を集めて、人生一回きりの新卒採用資格というプラチナチケットを無駄にしないよう、良い企業に就職をしようとする。そして企業に入社する。とりあえずどんな企業であろうと、入社をしないと「社会的承認」を得られないからだ。この社会的承認を与える立場の人間は、勿論身の回りの人間全員だ。育ての親、親族、地元の友、ひいては将来的に転職をする時は転職市場であったり。新卒入社という一種の「イニシエーション」を経ないと、社会人になる事は不可能だ。

そして入社した会社で、待っているものは今迄に経験したことのない事案だ。結論が用意されている単なる漫談のような「激詰め」に、飛び込み営業や、理不尽な研修など。それら儀式的なモノを棚に上げると、利益を創出することの厳しさや、反対に自分が全く利益創出を行えないポジションで仕事を行ったりする。それらの環境でも、後に対価が得られるのであれば耐えるのが合理的選択だ。しかし対価が得ることが難しいと分かっていればこんなに厳しい状況に我慢出来ずに、精神的に苦しんでしまう事案も発生する。経済的に厳しい冬の時代だからこそ、上司も部下に対して厳しく接するであろう。

マクロで見ると経済情勢的理由、ミクロで見ると各人の置かれる厳しい環境、そしてそこからのキャリアチェンジ。「普通の生活、そして普通の死」が叶わないのであれば、若者は精神的幸福を求めて揺れ動く。私はそう思っている。



- 失われる「社会的承認」

一回、日本的な慣習から降りると復帰は結論、不可能ではないが極めて厳しくなる。自身の幸福を求めて、例えばフリーターに一定期間おさまるとする。そこで得られる精神的自由よりも、多くの人間は「フリーターをしているダメ人間」と社会人失格の烙印をし、失ってしまう社会的承認の方が極めて重くのしかかってくる。同窓会などで友人と会っても、自身の境遇を話すことすら憚られ、恋人の両親に挨拶すら出来ない、そして転職市場では「空白期間」として「社会的にその個人が存在していない」事と認定されてしまうからだ。

先述した、幸福への逃避とは、この社会的承認とのトレードオフであるケースが多い。何故なら経済情勢が厳しい昨今では「労働」がとてもシビアで厳しいものである事に加え、労働集約的な企業での過酷な就労環境があるからだ。(幸福を何故労働と対比させているかに関しては、労働というものが多くの人間に関連する事案だからである。何故なら労働は日本国民の三大義務であるからだ)

若者は精神的自由を求めて、フリーターやニートとなる事を選択したり、はたまた海外就職を選択したり、怪しい個人事業主になる事を選択する。そしてそれと引き換えに失う、社会的承認を天秤にかけ自身の利益が最大化するような道を進もうとするはずだ。(ここで言う「利益」とは幸福度や資産、キャリアなど多岐に及ぶ)



- 私のケース

私はまさしく、先述の点で悩みふけっていた。11新卒で入社した企業はとても厳しい事で高名だった、ブラック企業の東大医学部みたいな所とも形容される事もある。グループ企業では自殺する社員も一定間隔で現れると聞いた事があった。一定の職務中の自由は全くなかったわけではないが、それこそ海外資本企業の様な「自由放任主義」の名の下、数値目標を部署で共有し必達が至上命題で、やり方は2年目であろうが新卒であろうが、完全に個人任せであった。良く言えば、完全に個人のスキルで差が出たり、運次第で一気に道が拓ける事もある。しかし多くの人間にとってそれは、戦時下の様なソルジャーの如くの激務である。

結論を言うと、私はその企業で負けた。運にも恵まれず、自身のスキルも低い事も重なり、人並み以上程度の成果しか上げることが出来なかった。そんな私を待っていたのは1時間にも及ぶ激詰めや、人格攻撃などの嫌がらせ等であった。私のメンタリティーは人並み以下であったので、これが非常につらかった。ここで私は精神的自由を失う。そして精神的自由を求めて、それとトレードオフである社会的承認を天秤にかけ、退職するかしないかを最後まで迷っていた。(ちなみに退職を決意したのは、このままだと自分を殺す行動に出かねないという危機感より)経済不況、自身のスキルの無さ、低学歴等。様々な要因でこの選択までに至っている。


- トレードオフのその先には

高度成長期の様な経済情勢にはもう戻らず、一種の大企業の椅子も少なくなり、一流大学生の間で壮絶な椅子取りゲームが行われる。その下で、我々の様な大した学歴もない、優秀なスキルもない一般人はどうやってこの社会をサバイヴするのか、非常に興味がある。社会的構造のシフトが今まさに発生していると、とある友人が常々言っているが、それらもカタチとして現れ始めている。結論人脈がキーワードになり、人脈を元にビジネスが展開されるであろう。

企業人としてサラリーマン人生を全うする事が不可能なのであればその状況に適応していく、結論はシンプルにこうあるべきだ。そこに対する社会的承認も将来的には出てくるだろう。おそらく、社会的承認の根拠になっている結婚、出産、家の購入などを普通に行う個人事業集団の様なものも出現しそうだ。

僕は社会的承認を失い、今は関東から遠く離れた京都でフリーターをしている。そして祖父母の家に厄介になっている。これは典型的な社会のクズであろう。しかし、この選択も悪いものでなかったと思う。むしろ自分の置かれた経済的状況等を考慮すれば最適な選択なのかもしれない。しかしいずれは関東に戻り、また一度企業人として働く意欲でいる。企業に所属する事が金銭を稼ぐ上で、必要なことを学べる機会が多いからである。そのために今は、得た精神的自由と時間的余裕を活用して、シコシコと勉強したり、貯蓄を増やしたり、人脈を作ったり、色々な事にチャレンジする。

精神的自由と社会的承認のトレードオフの先を生きる若者として。